バイクを降りる資格

おはレーニア。えびです。

雑談っす。

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ライディング講座➡【目線はコーナーの奥に】初心者を脱却!ライディング講座①

前回の呟き➡技術は金で残る

関連記事①➡【難儀】バイクに乗り続けるということ

関連記事②➡【本当のバイク乗り?】バイクに乗る上で


①:降りるという選択

金銭的、身体的、環境的理由でバイクを降りる人を数多く見てきました。皆さんの周りにも沢山いるかと思います。

バイクに乗る資格、という言葉をよく聞きます。本当のバイク乗り、という言葉も聞きます。乗る為には、乗り続ける為には、という話はよく聞きます。(【本当のバイク乗り?】バイクに乗る上で)

一方でバイクを降りるという話はあくまでも個人的な話。自分で乗り続ける選択をするか、自分で降りる選択をするか、走り続ける事が出来なくなるか。

ある人が言っていた。「レースの走り方を教えてくれた人は数多く居たが、辞め方を教えてくれる人は居なかった」と。

乗るのも自由、降りるのも自由。高速道路をひたすらに走っている様。ICで上がってくる人もいれば、ICで降りる人もいれば、途中で立ち往生する人もいれば、途中で事故で亡くなる人もいる。

バイクに乗る資格という話は煩い人は多い。しかし、バイクを降りる資格という話はあまり聞かない。

とある有名?な隻腕ライダーがいます。その方の事を詳しく存じ上げないので失礼な事を言ってしまうかもしれません。片腕を無くしそれでも隻腕ライダーとして今も走っている、という話が美談として良く耳に入ってきます。

その方がどのような経緯でそうなったのか、何を思っているのか知りませんが、個人的な気持ちでは「乗るべきではない」と思います。当然ながら運転免許を取得し、法律上問題ない車両で走っているのでしょう。それでも万が一事故が起きた場合、仮に私が被害者で、その方が加害者となった場合、隻腕が問題ではなかったと言われても到底納得できません。そこは法律上の問題ではなく、加害者被害者間の感情の話です。もっと極端に考えると、高齢者の免許返納の問題と何ら変わりがないと思っています。

それは境遇は違えど私も似たような状況だから。

仮に失明したとしても、片目での視力と視野角が確保出来れば自動二輪免許が剝奪される事はありません。ただ、私自身はっきりとラインを引いており、片目が失明に近い状況になればバイクは降ります。そこまでの気持ちなのか?と言われると、そこまでの気持ちです。今でも身体、天気、気温、色んな要素をみて、ベストのコンディションでない限りバイクに乗っていません。

知り合いにも隻眼ライダーが居ます。一緒に走っていた仲ですので、細かいところまで理解もしています。それに隻腕の方を含めたハンディを負って走っている人を「なんで乗っているんだ」と非難している訳ではないです。

私自身が逃げているのかも知れない。ただ、他人と比べてどうか、ではなく。自分の中で確実に安全に走れるラインというものが存在していて。出来ていた事が出来なくなると、それをリカバリーできるとは到底思えない。

「乗れる限りはバイクに乗りたい」という気持ちは分かります。ただ、どれだけ気を付けていても、どれだけ強い思いがあっても、健常者に比べて運転以外でも不安要素が多い事は事実です。本人の意志を尊重する事も大事ですが、事実から目を背けてはいけない。そこに蓋をして、乗り続ける事を、走り続ける事だけを讃美する事はただのエゴだよ。


②:降りる資格

昔はコースで死んでも構わない、バイクが潰れてもそれが本望だと思っていました。それが今では自分の引き際を考えている。結局のところ、気持ちなんてそんなもん。降りる降りると言いながら、その時が来たら手のひらくるっくるで走り続けているかもしれない。

良くありますよね。ずっと乗り続けると言ってた子に限って、さっさと降りていく。ただその中でもよんどころない理由で降りていく人も勿論いる。

決意なんてマシュマロのように柔く、カップドリンク界の神 マウントレーニアクリーミーラテのように甘い。

降りる資格なんてものはないかも知れない。ハンディを負っていなくても事故する奴は事故をする。ハンディを負っていても事故しない奴は事故しない。

自分の中で確実にコントロール出来る範囲を考えてる。自分のコンディションが悪い時にバイクに乗って、他人を巻き込んでしまった際、

「法律上は問題ない」と私は言えないもんで。


勿論、レーニアは飲み続ける。

えびを

続編 ➡ 一番不向きな役職で出世は止まる

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